AISES代表理事の栗原慎二です。今,クラウドファンディングに取り組んでいますが,そこに書いたことをちょっとだけ視点を変えて,なぜ私が,貧困や虐待支援を行っているのか,また,なぜ教育相談や生徒指導に取り組んでいるのかということについて、そのきっかけになった出来事をお話しします。

(特定できないように事例の本質を損なわない範囲でフィクションが加えられていますことをご了解ください)

 私が高校の教員をしていた時、優子(仮名)という生徒がいました。彼女が高1の時、彼女は私の授業に出ていたのですが、授業中寝ることが多く、私が傍に行って、「ほら、寝てると授業分からなくなるぞ~」と声を掛けると、「あ~、寝ちゃってた。先生、ごめ~ん」と言って私の顔を下からのぞき込んでは人懐こい笑顔を向ける、そんな生徒でした。

 優子が2年になると、2年で学習する日本史は私の担当ではないことと、私が他の学年団に所属していましたので、優子と接点を持つことはなくなりました。ただ、ときどき廊下で会ったりすると、「先生~!」とまたあの人懐こい笑顔でこっちに手を振るようなことが時々ありました。

 文化祭も終わり12月に入った頃,「そういえば最近、優子と会っていないな。どうしてるかな」などと思っていた矢先、優子の担任から、「実は、最近、優子が学校に来ていない。親にも連絡もつかない。家庭訪問をしたら、その住所には誰もいなかった。先生、何か知らないか」と相談をされたのです。本当にびっくりしました。

 詳細は割愛しますが、探し回って1か月後、優子とコンタクトをとることができました。ただ、優子は「学校には行きたくない。でも先生には会いたい。学校の外でだったら」と言います。そこで,放課後に時間を取って,学校の外で会うことにしました。

 優子はいろいろなことを話してくれました。3~4歳のころ母がDVから逃れるために実父と離婚したこと、その後の赤貧生活、でも,お金はなくても怯えないでいい生活と母と二人の生活はそれなりにうれしかったこと、ただ,母は赤貧生活から逃れるためにその後再婚したこと、妹ができると義父からあからさまに罵声を浴びせられ殴られ厄介者扱いされるようになったこと、ついには義父から夕食の食卓に付くなと言われ居場所がなくなったこと,そんなこともあり高1の頃から隠れて居酒屋で夜中までバイトをしていたこと、だから学校でも寝てしまっていたこと、今は家に帰りたくないから、友達の家を渡り歩いていること、学校は続けたいけど「もう無理」と思っていること、親も探してくれないのに探してもらっていたことが分かった時“探してくれる人もいるんだ”と思ってすごくうれしかったこと、でも「なんで生まれちゃったんだろ。」っているも思うこと・・・・。3時間も4時間もずっと話し続けていました。

 当時は1980年代で、別室登校といった言葉もまだないような時代でしたが、私は「なんとか高校を卒業させてやりたい」という一心で、教務と内規の変更を掛け合い、校長に進級要件の緩和を掛け合い,職員会議でみんなを説得し…と、ありとあらゆることをやりました。優子も、別室でしたが登校し勉強を始めました。学年末テストも別室で受け、かなりの良い点数を取りました。そういう姿をみて、先生方も「3年で頑張る」と本人が言いさえすれば、進級を認めようというところまで譲歩してくれたのです。

 ところが、そのことを伝えたとき、優子は、沈黙し、沈んだ顔をしたのです。そして「夢ね」と呟いたのです。私は意味が理解できず,優子に問い返しました。そうしたところ優子はこんなことを言い始めました。

 「先生、今までありがと。こんなに人にやさしくしてもらったことは生まれてから一度もなかった。だから私、頑張った。先生に喜んでほしかったから。私がここで“頑張る”って言ったら、3年に進級できるかもしれないけど、先生は私の担任じゃないでしょ。そしたらこんな風に一緒にいてくれないんだよね……。そしたら頑張れないよ。進級しても、きっとまた来なくなっちゃう……。そしたら栗原先生が、優子のせいでほかの先生に責められるよね。そんなの、いやだ…… だから、学校を続けるなんて“夢のような話”っていうこと。…… 先生、ありがと。もう十分大切にしてもらった。だいじょうぶ、私、変にならないから。ちゃんと家に帰る。家は嫌だけど、頑張って働いて、早くお金貯めて早く家を出る。先生、ホントにありがと」

 こう言って優子は学校を去っていきました。私は自分の無力をいやというほど思い知らされました。優子みたいないい子に何もしてやれない自分に、学校に、優子みたいないい子を生み出し続ける社会に、やるせない憤りを感じ、何かに突き動かされるように教育相談にのめり込んでいったことを思い出します。

 虐待や貧困の中で十分なケアを提供されなかった子供は、心を閉ざし、「どうせ私なんか助けてもらえない」と思っています。「助けてもらう価値すらない存在」と自分を思っていたりします。だから最後の最後のところで助けてもらうことをあきらめたりします。今、思えば、優子もそうだったのだと思います。

 私が優子を探し当て連絡を取ったとき、優子は本当にうれしそうでした。でも最後は、「でも、先生は最後まで付き合ってくれるわけじゃないよね」と言って、人懐こい、そしてさみしそうな笑顔を私に向けてきました。あの時、私は、優子の根っこにある寂しさや見捨てられ感を十分にわかってあげられず,いろいろな思いや戸惑いにも翻弄され、結局,手を差し延べられなかったわけです。今だったら、「何言ってるんだ。先生、怒るぞ!先生が優子のことを大切にしないなんてことがあると思うか!大丈夫,何とかするから。信じろ!」とか言っていたかもしれません。そう言えなかった自分の未熟さに腹が立ちます。

 実はこの出来事は、私が20代の時の出来事です。かれこれ30年が過ぎましたが、思い返すと、当時のいろいろな思いがよみがえってきます。

 この文章を書きながら、「30年の間に私にできるようになったことはあるのだろうか、変わったところがあるだろうか」と考えていました。

 そう考えると、「二つ、分かるようになったことがあるかもしれないな」と思います。一つは、「相手を本当に大切に思うこと、大切にし続ける覚悟を決めること、それが大切なんだ」ということが一つです。もう一つは、「結局、私にできることなどたかが知れている」のだったら、「一人で戦わなくてもいい。同じ思いを持つ人と手を取り合えばいいじゃないか。そういう人たちを信じて、手をつなげばいいんだ」と思えるようになったことです。

 虐待、貧困、居場所のない家庭‥‥ 小さな体と心に、背負いきれないほどの荷物を負って生きていかなくてはならない子どもたちが、日本にも,世界にもたくさんいます。もし、これを読まれている皆さんが、私と同じ思いを持っておられるならば、私たちと手とつないでもらえませんか。そして子供たちのところに行って「一緒に手をつなごう。大丈夫、手は離さないから。一緒だったら乗り越えられるよ」って言ってあげませんか。

無題